山に行きたい
最近、テレビ、ラジオ、Podcastで、同じ話をよく聞きます。
みなさんに引っかかるようで、よく引用されるお話です。
「今の人が1日に触れる情報量は、平安人の一生分」だと。
さらにそこから展開させて、「その情報量は人工的な情報量のことで、自然環境から得られる情報量については、今の人が一生に触れる自然からの情報量は、縄文人の1日分」とのこと。
本やテレビ、ラジオ、インターネット、人との会話を通じて、私たちはいろいろな情報に接触します。まさに溢れんばかりの情報量。人の脳が作り出した情報。その人工情報を遺産として引き継ぎながら、人は成長し、社会全体では文化的に発展してきました。インプットにも限界があって、人工情報に占められてしまうと、自然からのダイレクトな情報を受け入れるスペースがなくなっています。わたしもまさにそんな人工情報過多な状態にあります。
以前、山歩きをよくしていた時には、一人で山に行くことが多く、その時はまさに空っぽな状態で、五感が研ぎ澄まされるような不思議な感覚がありました。
登山家の戸高雅史さんから、「身体知」という言葉を伺ったことがあります。
(マサさんは、8000メートル級の山を単独無酸素で登られていた凄い方です!本当に素敵な方で、大ファンです。)
登山中、感覚が研ぎ澄まされてくると、地面に足を置くか置かないかの瞬間にこの下にクレバスがあるとわかったそうです。まさに、身体感覚の極みです。それをマサさんは「身体知」と表現されていました。
動物としての人は、目に見えない微細な情報を受け取る力を持っているのだと思います。まさに縄文時代の人は、それを駆使して生き抜いてきたのでしょう。そう考えると、生き物としての軸を保つために、時に人工情報のデトックスって必要なのかもしれませんね。そして、山や川、海に時折行きたくなったり、夜空を見たくなったり、植物やペットに触れたくなったりするのは、深いところからの欲求なのかもしれません。
山とうめちゃん、最高です!
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